昭和五十一年十二月十二日朝のご理解
松永享四郎
ご理解第二十五節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
大きな信心でなからなければならないと同時に、迷わんで済む一心の信心が、大事であります、大きなおかげを頂く為には、どうでも、そこんところが大事です、そこで、大きな事を願うと云うても、目指しはやっぱりそうであっても、足元のところから、一段一段大きくなって行かねばいけません。
世界に金光教を拡めたい、世界の隅々にまでも、和賀心の布教につとめる、そう云うやはり大きな神様の心を心として、願いを立てさせて頂くのですけど、只願うとれば良いと云う事ではなくて、それには一歩一歩やはり、和賀心を創って行くと云うても、自分の心から、そして、自分の周囲から、段々拡げて行かなければでけんのです。
段々信心を進めて参りますと、様々に迷いの起こる様な事もございます、よう躓く様な事もございましょう、または、或る程度のところが判らせて貰うて、もう云わばこれを良いと云う様な中に閉じこもってしまうと云う様な人が云わば、沢山あります。
云うならば、成るほどおかげを頂いておるけれども、もうそれが本当な事だとして、それから、一歩も前進しようとしない云わば行き方、私は、思うのに、どんな場合であっても、どんな時であっても、くじけない、迷わない、しかも限りなく進めて行ける信心が、今の合楽には段々出来て来たと思われます、これならば、精進さえして行けば、大きな信心に進んで行けれると、所謂、合楽理念を基にして実意丁寧神信心をいよいよ続けて行くと云うのです。
昨日は、学院から、もう2.3日前から来とったらしいけど、昨日見せて頂いた、分厚い手紙が参りました、今まであんな事はなかったけど、初めて合楽の学院生の、それぞれの、担任の先生から一人一人の学院生の批評を、丁度半年後、半期の、下半期、上半期に分けて信心ぶり、修行ぶりと云うものを書いて寄こされました。
つい、この頃から秋永先生達が、ご本部へ参りまして、合楽の修行生は、生き生きとしてと云う様なほめ言葉ばっかり聞いて、大変我が意を得たりと、これがお土産であると云うて帰って来とったから、私も安心して聞いとった。
ところが、一人一人の先生方が、云うならば合楽には手を焼いていると云う感じ、一人一人がそれはどうかと云うと、兎に角、合楽の修行生は、再短距離をねらっとる一番おかげを頂く近道を、自分の、私たちは行っておるんだ、だから、だからあげな事は覚えんでよかとか、ご祈念さえしときゃよかとか、と云うて、皆一同との足並みを揃えない。
そう考えてみると、勉強嫌いの者ばっかり行っとる、特に男性の修行生は皆そうです、兎に角一生懸命ご祈念して、お徳を受けて、人がどんどん助かりすりゃ良かろうもんと、云うごたる云わば云い方をするらしいです、それでいて、学業には出て来ない、お酒は飲む、兎に角、もう先生どうか云ってやって貰わねば、と云った様な事。
だから、これは過去の修行生も、やっぱり一人一人、今年からいろんな、あれが変わっとりますから、前の修行生だって、兎に角、合楽の修行生は、評判が良かったと云う修行生は少なかったかも、同じかも知れません。
それを、ほめ言葉の方で頂くと「〇〇〇〇」先生あたりは、今年の修行生は非常に感受性が強い、感動が強いと、まあ良い意味でほめて頂くけれども、実際、受持ちの先生が云って来ておる事は、一人一人が、まあ、女の修行生はまあまあと云うところ、例えば、今村和子さんなんかは、中学しか行っとりませんから、なかなか学業の方へついて行っておるけれども、まあ一生懸命勉強すると云う様な事。
それから、よしえさんは、もうこの頃から随分云うなら、ズルけて居ったが、この頃は少し良くなって、まあ真中位のところに居ると云った様な、これが良かと、もうあとはもう兎に角、酒は飲むし、そのう、それが例えば井上太郎君なんかは年をとっておりますからね、扇動力があるのですよ、だから良い方に動けば良いけれども、悪い方に云うから、もう行くな行くなと、云う風に云うから、また皆が行かん、だから、これもまた困ったもんだと云う。
私は、昨日云いました、7千円づつ小遣いを送っとるんですよ、それで、誰が金を送りよるとじゃろうかと、私は思いました、そげん酒どん飲まれる筈はありませんもんね、これは、親戚やら、ご信者さん方やらが、小遣いを、送ったり、やったりしよんなさるとじゃなかろうかと、じつを云うなら言語道断です、と云うて私は、それで困ったとは一つも思いませんです。
なぜかと云うて、私は今度、ご本部参拝で、ここの修行生の方達の、まあ云うなら悪口を云うた人が、他の人達が黙って聞きよったけど、私は云いました、私が家で一番大事にしとる事は、家の修行生の方達だと云いました、なぜかと云うて、若い身空ばかりではありません、例えば、上野先生やら、西岡先生やら、もう年配の先生方も居ますけれども、それでもね、あの人達は、私に、命を預けとる人達です。
云うならもう神様に委せきって、修行しておる人達、どげな素晴らしい信者が居ると云うても、幹部が居ると云うても、私が、一番大事にしておるのは、家の修行生です、だから、修行生の事を、もう、とやこう云われると、お前だん、なしごつ云いよるかと云いたい、しかもそんな事を云うて良かろう筈のない人が云うからね、あんたどんの信心は何なのと、私は云いました、まあ、信心がとやこうではないですけれども、云うならば、一生を金光様に捧げた人達ばいと、あの人達は。
また、昨日、研修の時に、私はここの修行生の人達に云うた事でしたけど、また、修行生の方だからと云うて甘やかしゃしません、例えば、あんた達は、朝から晩まで、ちゃんと紋付袴をはいて、別に手を汚す様な事をせん、まあ掃除位はしましょうばってん、それに第一食べる事に、もう大の男が一家を支える為に、それこそ四苦八苦しよる、もう赤字で首が回らんと云う人が世の中には多いとですよ。
着る事に不自由しない、食べる事に不自由しない、と云うて合楽に居りゃ寝る時間もなか、きつうしてこたえんごたる修行は何も、第一、表行しちゃならんと云う位じゃから、それこそ、紋付袴つけて、もう心行一つに取り組んどきゃ、よかっちゃろうがと、人が助かる事の為に、先ず自分自身が助からにゃならん事の為に、本気で合楽理念のマスタ-と同時に、今まで疎かにして来ておった、所謂実意丁寧神信心の欠けておったところを、それに取り組む事だけを、先々の事が不安とか心配とかと云いや、そうかも知れん。
そりゃほんに、篭の鳥のごたると、悪く云えばそうだけれども、良く云えばこんな楽はないよと云うた、暖房の効いた、冷房の効いた部屋で、只、自分の好きな信心に専心する事だけで良いのだから、ちゃんと、羽織袴を着けて、ちゃんと、あんたしとるとじゃけん、こげな楽な事はなかばの、だから、本当に合楽理念のマスタ-を誰よりも先に修行さして貰うて、おかげ頂くより外に、仕事はなかっちゃから。
生活がかかっとると云う事がないのだから、だから家族の信心のないものでん、あなた方が信心が出来さえすれば、ならあなたを中心にして、例えば、この頃、西岡先生が云うておられたごと、長男の家に何日か行っておられたんです、信心はないのですけれども、只、おかげを頂いておる事に、驚いておられる程のおかげを受けておるのだから、だから、愈々、西岡先生なら西岡先生が助かる事に精進すりゃ、それに人が助かる事になって行かれる。
私が何と云うて、ここの信者が一番素晴らしい、誰が良いと云うたって、私がもし取らにゃんならば、一番、だから、お届けする時に一番に家の修行生を書くです、私は、総代よりも何よりも先ず修行生だと、だから、修行生の事を軽う私に云われると、私はもやもやするです、ほんと。
あの人だん、どうじゃろたっちゃこうじゃろたっちゃ、あの人達は、私に命を預けとる人達ばのと、と云いたい気がする訳です、それが、その修行生の事を本当に思って呉れたり、また、願って呉れたりする事は有り難いけどね、それが悪口である場合は、そりゃ人間じゃけんで、ちっとは欠点もあるくさ、それぞれに、と云う様な調子で、私は家の修行生を見てるからね。
そりゃ、学院の先生方が、昨日云うて来とる手紙からです、云うて来とるところから見ると、悪かとこばっかりなんですよ、けれども、第一自分を、一生涯をお道の為に捧げると云う誓約を入れて学院に入っとるし、また、私にも誓約をしてからここに、中途半端な心ではなくて、ここに来とるとじゃから、誰が何と云ったって、家の修行生が、云うなら一番可愛いいと、大事にすると云うても、一番大事にするて、私が。
最近の合楽理念と云う事やらは、まあおかげの泉やら、テ-プで分かっておろうけれども、所謂実意丁寧神信心が、全然出来てない、そげな事せんでん、人が助かりさえすれば良かろうもんと云った様な事、云うならば、一生懸命そげな事は、勉強せんでも、自分が力を頂いて、自分が助かりさえすれば良かろうと云う様な、そう云う修行に取り組むと云う訳です。
私が、学校に行く時にね、合楽でさせて頂く様な修行はあちらではするな、あちらではもうあちらの云うなら、学校ですからね、学業を先ず身につける事、この事だけに専念せろと、私が云っているのです。
それでも、合楽の中にはそう云う傾向が非常に強い訳です、この頃で、頂いとるご理解を、神様だけが知ってござる世界に生き抜くと云った様な、先生どんがいくら悪口云うたっちゃ、神様が知ってござると云うて、酒は飲む、学院には出らない、昼寝をしてから、起こしたっちゃ起きらんげなもん、まあ云うならば、箸にも棒にもかけられん、かからんごたる、だから、また、都合ではまた一年居って貰わんにゃんか判らん、いっそそれはまあ有り難い、そりゃあまあ二年も修行が出来るごたりゃ有り難い、お膝元で勉強出来るとじゃから有り難い、それでもどうちゃ思わんです。
もうギリギリのところ、本当の内意は人が助かる事さえ出来ればそれで良いのですから、けれどもです、私は、その今の合楽の信心を判ったら、そんな仇や疎かには出来ないと思うのですけれども、悲しい事には、その事が判らんなりに行っておりますからね、云うならば、神様ばかり拝んで、後はいいかげんにしとると云った様な事をですね、指摘して云って来ておられる訳です。
だから、これではね、私は大きな信心とは云えないと思う、大きな信心と云う事はやはり、合楽理念に立脚して、その上に実意丁寧神信心が出来ておるなら、それこそ、私が云う通りにするなら、もう、どこから見ても金光教の信者、どこから見ても金光教の先生と云われ、思われなければならない雰囲気と云うものが、身について来なければ嘘です。
今の金光様の合楽の信者さん方は、この事は出来るけど、この事は出来ないと云った様な事がない、皆たろうて出来て頂かねば、また、大きくなると云うても、たろうて行かねば大きくなれません。
昨日、親教会から葉書が来ている、今度の記念祭が終わったので、委員会の解散式をするから、14日に出て来いと云う事です、一応目的を達成出来ましたので、奉迎委員会の解散を左記により行いたいと思います、と云う訳なんです、だからまあ行き届いた事だと思います。
だから、これはこれで良いのですよ、けど、これを信心の上で云うとね、私共が一つの事が判ったからと云うて、後は解散しますと云う事であってはいかんでしょうが、一つのこのおかげを頂いたから、もうこれで、成就する事はないでしょうが、もうそれこそ、合楽の信心は、まあ完璧の域に入った、けれども、これから先は限りがないでしょうが、その限りない信心を進めて行って、初めて大きな信心が出来るのです。
同時に合楽理念と云う、また実意丁寧神信心と云う、云うなら、為そうと思えば子供でも成せる様な事を、疎かにして来ておった事に、心を使わして貰う事を、私が心行だと云っておる、心行の伴うた信心が出来て行くと云う事です。
だから、この信心ならば絶対でしょう、完璧でしょう、ですから迷いが起こらないと云う事です、今の合楽の信心を、所謂合楽理念をマスタ-して、そして、実意丁寧神信心を続けて、決してそれは難しい事でなくて、云うなら楽しう、有り難う出来て行く、他所からの、非難、誹りもあろう筈がない、合楽理念を基にするのですから。
すべての事を本当に、成り行きを大事にさせて頂きながら、すべての事に御の字をつけて、御事柄としての頂き方、そうする事が、その事が、神様の働きなのだから、その働きを合掌して受けて行くと云う、修行がそれは必ず、次々と体験が生まれて来るから、楽しい事なんだ。
昨日、高橋さんから、電話が掛かった、ご本部参拝から帰らせて頂いて、此処で月次祭を頂いて、その晩帰られた、もう疲れておられるから、私に挨拶に見えられたから、今日はあんた疲れとるから、しっかり注意して行きなさいよと、云わんならん位、疲れが見える様じゃった、自分も疲れとるから眠るかも知れんと思うてから、帰りよんなさったげなら、確かにすやすやと眠って、そして、運転して行きよんなさった訳です。
そして、前の車に追突した、ところが、相手の方が大変良い方でよう云うて貰うた、けども、まあ修繕はさして頂くからと、云うて別れとった、ところが、昨日あちらから、電話が掛かって来た、その方から、もうあの事はご放念下さいと云うて、ほんに世の中には奇特な方があると思いますよね。
もうほんとにちょっこっとばかり修繕すりゃよかとに、沢山金を取るという世の中にですよ、しかも自分の車を疵つけられて、そして、昨日あなたが修繕して呉れると云いよんなさったけど、もうその事はいりませんて、だから、どうぞご放念下さいと云うて、だから、ウイスキ-なっとん持って挨拶に行こう。
私も、その方も、駅の近所らしい、だから、スタ-レンの中に、そちらで、夕食でも差し上げたいからと云うて、「いえそげな事はいりません、私は、用事もあるから」と云うて辞退された、それで、何かウイスキ-なと持ってご挨拶に行きたいと思いますからと、電話が掛かって来た。
しかし、信心があんなさると思いますけど、世の中には本当に変わった、素晴らしい方が、行き方をしている人がありますよね、そう云う世の中になったら、どんなに素晴らしいい事であろうかと思う、しらごつでん云うて、相手から取り上げんならん、と云うのがあるかと思うと、もうそれはそう云う災難を受けんならんのは、あなたじゃない、受けなければならんのは私だ、と云う頂き方でしょうね、きっと素晴らしいね。
また、昨日、西岡先生が、昨日お届けさして頂いた、先日から、酒井さんと云う、豊後森から参って来る親戚の方が、いっぱい参って来るんですよ、昨日なんか車2台で参って来る、夫々お願いがあって、もう兎に角、親戚中の者が、酒井さん達と同じ様に、合楽の金光様ちゃ有り難いと、皆がそう云うとられると云う訳なんです。
従兄弟さんになるのが、この頃、自動車運転の先生をする資格を取る為に、試験が大変難しい、それにもう、5回か6回か受けて出来じゃった、実力はあるらしい教える実力は、けども、学課の方が出来なかった、それで、その合楽の金光様に、明日が試験でね、その時は一昨日じゃった、それでそのう、こんな厚い本から出る訳です、だから、この本のどこんにきから出るか、いっちょお尋ねしたいと云う訳です。
あんた、難しいこつば云うて来たのと云うて、云いよったばってん、神様から、第1章と云う事を頂いたんです、もう本当に難しい事です、そげな事云うて来たのは、私も困るです実際は、けども頂いたから、こんな厚い本の中に、第一章と云うのはこれ位あるです、だから、特に第1章ば勉強しときなさいと、私が云うときました、そしたら、昨日、一昨日お礼に出て来てからですね、その第一章からばっかり出たそうです、だから、今度は、90%は出来とるじゃろうと思いますから、まあ取り敢えず、お礼に出て来ましたと云う事ですよ。
だから、そう様な事だけが信心であったりね、例えば、それだけ判れば外のは判らんでよかてんなんてん、と云う様な信心ではなくて、それこそ、私はその方が何と云う神様を信心しよんなさるかどうか、知らんけども、高橋さんが関わられたその事故にこちらが遭わせた方です、された方が有り難く受けておられる、その行き方が素晴らしいと云うのです、信心とはそれなんです。
それが、合楽理念の根本なんです、叩かれたら、どうして叩くでなくて、叩かれなければならない本はこちらにあるんだと云う頂き方なんです、病気をせんならんならば、病気をせんならん大本はこちらにあるんだと云う事なんです。
合楽の金光様がです、これはもう、お腹の中から名前を付けて頂いた事がです、試験に本ば持って行ったら、ここば勉強しなさいと云わしゃった、そげな事が合楽の神様であったら、大変な間違いなんです、だから、そう云う人がです、云うたらまた、今から宝くじを買いに行くけん何番ば買うたらよかろうかと、云うて云うたっちゃよかごたるもんじゃん、だから、それを簡単に教える神様じゃないです。
だから、私は、それは困った難しい事云うて来たのと、そんな事を教えなさる神様じゃない事を、私が知っとるです、けれどもね、たまにはそう云う神様の本当の生きた働きと云うものをです、神様がいつも、見通し、見抜きだと、だから、神様だけがご承知の世界に生き抜く事が信心だよと、なら、時々神様が見通し見抜きの世界を、神様が権威にかけて教えなさるだけの事です。
この頃から、熊本から参って来た赤ちゃんの名前を頂きたいと云うのもそれです、ほんとにだから、こんな事を金光様の信心と思うたら、だから、大間違い、これは、しかし、この様に神様は見抜き見通しだぞと、それを判らせる為に、そう云う云うならば、普通で云うならば、そう云う奇跡的な事も教えられるけれども、そう云う事を教えたり、取り次いだりするところじゃないと云う事です、ここは、どこまでも。
例えば、その高橋さんが関わられた、事故を受けられた、高橋さんの車が追突して、向こうの車がそぜた、けれども、それはもうご放念下さいと、云うて電話が掛かって来たと云う事は、その事故に遭うたと云う、そのものを合掌して受けておられる姿です。
だから、そう云う道をね、そう云う、なぜそう云う受け方をせなければならないかと云う事が、合楽理念なんです、だから、そこを受けて行かねばいけんのです、そこを、受けて行かなければです、今日のご理解の、大きな信心にはなりません。
一篇にはいったばってん、二度目には違うたと云うたらどうなる、もうそれ限りじゃろう、信心、違いやしません、神様に頂いた事に間違いはありませんけれどもですね、そう云う信心を金光様の信心と思うたら、大間違いであってです。
愈々、合楽理念をマスタ-して、実意丁寧神信心をさせて頂く、ここが、合楽の信心のもう完璧の域に入ったんですから、ここを続けて行くところに、もうどんな事があっても、迷いが起ころう筈がありません、一心と定めるより外はありません、もうこれで行くより外にないと云う一心が定まった時に、云わば今日の二十五節の信心の内容があると云うのです。
大きな信心とは、大きな事ばっかりを願うと云うた事ではない、しかも、迷いの起こらない一心と定めいと仰有るところがです、今日聞いて頂いた、合楽理念と云うものが判って、実意丁寧神信心をさせて頂く、これはもう絶対のものなんだと、だから、この信心を進めて行く限りです、体験は勿論伴って行くと同時に、おかげも頂くと同時に、どんな場合があっても迷わんで済む、一心と定めて、愈々生神を目指しての信心が出来る。
そう云う信心をもって、云うなら、天下国家の事も祈らして貰える、愈々和賀心時代に拡げさせて行かせて頂く、そう云うお役にも使うて下さいと云う願いが、その中に入った時に愈々、あなたの信心が大きな信心に向かって、進んで行っている事だと云えると思うですね。 どうぞ。